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小住匡彦シェフ 特別インタビュー<前編>小住さん、パリに行く。

小住匡彦シェフ 特別インタビュー<前編>小住さん、パリに行く。

日本モンブラン協会 大坪(以降「大坪」):初めまして。日本モンブラン協会の大坪です。小住さんのモンブランは非常に独創的で、私も先日いただいて大変感動しました。日本モンブラン協会の会員にも、小住さんのモンブランのファンもたくさんいますので、ぜひこれまでのご経歴や、今後のビジョン、ケーキ作りのインスピレーションの源など、色々とお話を聞かせてください。

小住さんは海外に行かれる前は、大学で建築を勉強されていて、それから海外に旅立たれます。その時は建築の勉強のためというか、お菓子作りのことは頭にはなくて行かれたんですか?

小住匡彦シェフ(以降「小住」):あのーまこれ話すとみんなにもあるんですけど最初は関西大学の建築学科で勉強しながら、ずっとサッカーをしてたんです。

大坪:え、大学でサッカーをやられてたんですか?

小住:はい、大学でフットサルをやっていました。そして子供にはサッカーやフットサルを教えていました。正直ずっとそればかりやってました。子どもに教えながら、自分ではサッカーやフットサルをやって。友達がフットサルのプロになったり、 J リーガーになったり、コーチで生計立てたりっていう人が周りに沢山いましたから、自分も好きなのはこういう人にサッカーとフットサルを教えることなのかなと思ってたんですけど、ただ周りは建築関連会社に就職って言ってたので、僕も就活もして色々内定もいただいていたんですけど、このまま就職したらやばいなって4回生で思い始めて、実際には就職したくもないし、人と同じ人生になってしまうと思ったんですね。大学卒業して、土日のために働いて、やりたいことじゃなくてお金稼ぎのために働いて、結婚して、子ども作って、家買ってみたいな、毎日電車の中で俺は何を考えるんだろうと思ったんですね。そういう話を親としてたら、海外行くのもありなんじゃないかって話になったんです。僕も海外には興味があったので、卒業した後、いわゆる普通の留学に行くことにしたんですね。僕はアメリカとかどこでもいいかなと思ってたんですけど、父がパリに行ってこいっていう事だったんで、まあ今考えるとパティシエになってほしいからパリって父は言ったと思うんですけど。僕はサッカーしたかったので、パリでいいかなと。

小住さんパリに出発

大坪:パリサンジェルマンとかありますからね。

小住:そうそう、最初パリに行った時は、実際にパリサンジェルマンの下部の子どもらにサッカー教えたりしてたんです。

大坪:すごいですね!

小住:だからフランス人のサッカーチームの子どもらにサッカーを教えて、自分でもサッカーリーグに入って、勝ったら勝利給いただくとかしてたんです。

大坪:すごいレベルだったんですね。じゃあリーグアンの下部組織みたいなところですか?

小住:いや、リーグが20ぐらいあるんです。で、そのうちの9とかそのくらいで。それでも勝ったらアマチュアでもお金がもらえる、そういう世界で。でもサッカーやってる知り合いはヤンキーしかいなくて笑。ガラの悪い人とばかり知り合いになってました。ただフランス語喋れなくて行ってましたから、サッカーを子どもに教えてると、子どもが喋るようなフランス語が移ってしまって。耳が慣れてきて学校でフランス語で話しても、もうそんな赤ちゃん言葉話さないで!とか言われたり。最初の頃は、赤ちゃん言葉使うわヤンキーの言葉使うわ、多分めちゃくちゃなフランス語だったと思います、今考えると。

大坪:すごいシェフですね。

小住:ソルボンヌの外国人の大学に入ってフランス語を学んでたんですが、そういう生活を送ってたら、次は英語も喋れるようになりたいって思うようになりまして、それでロンドンに行って英語を勉強し始めました。そしてそこでも言葉が分からなくてもボールを通じて友人ができて、サッカーの前とか後とかにうちこいよとか言われたり、ご飯を食べに行ったり、そういう中で良いことも悪いことも色々教えてもらいました笑。現地人はこうやって過ごすんやっていうのを。行った当初から日本人と仲良くするのはやめようと思ってたので、最終的に7年か8年くらい海外に住んでましたけど、最終的に日本人の友達は2人しかできませんでした。

ロンドンでイギリス人以外にも知り合いも出来て、そこで色々話せるようになってきたんですけど、自分でも不安になってきたりもしました。自分からサッカーを取ったら、建築もやってないし、何ができるんだろうって。で、色々と考える中で、父親がケーキ屋をやっていたので、バイトでもしてみるかって感じで、一度パリのケーキ屋でバイトをしてみたんです。そしたら、「なんや、できるわ」ってなったんですね。で、ル・コルドンブルーっていう有名な製菓学校に一度行ってみようと思って、身構えて行ったわけです。言わばメジャーリーグ見たいなものですから。一年くらい行く予定だったんですけど、でももう1ヶ月ぐらいで、言い方は悪いですけど、レベル低すぎるなって思ってしまったんです。「あれ?なんでやったことないのに俺できるんやろう」っていう風になったんです。

スクール時代の小住さん。お若い

大坪:それはやはりお父様がケーキ職人をやられていて、ケーキ作りとかを小さい時からみていたというのもあるんでしょうか。

小住:そうですね、それもあると思います。自分では実は不器用だと思ってたんです。でも何故かケーキ作りは器用にできて、学校ではみんな自分を頼ってくるし、苦手なことないなってなって。

大坪:それはおいくつくらいの時ですか?

小住:23歳くらいの時ですね。で、もう意味ないなと思って父に電話して製菓学校を辞めたんです。正直得るものがないと。

大坪:入って1ヶ月で。

小住:そこからは、いろんなケーキ屋で修行しようと思って、10店舗ぐらい行きました。色々おいしいとこに食べに行っては、美味しかったので働かせてくださいって言って、2ヶ月はただ働き、3ヶ月目から月5万円いただくみたいな生活ですね。朝は5時半とか6時ぐらいから始発に乗って、黒人の出稼ぎに来てる人たちと一緒に満員電車に真っ暗な中揺られてっていうのをやっていました。今でも覚えてますけど。そしていろんな店に行って修行して、あれもできるこれもできるってなって。その頃が一番しんどかったですね。朝チョコレート屋、昼からパン屋行って、夜ケーキ屋行ってみたいなことをやっていましたから。それプラス学生ビザだったので、学校も行かないといかなきゃいかなかったんです。でもそんな疲れた状態でやってても頭に入ってこないし、出席だけしに行くみたいな状況で。そしていろんなところに行ってやっぱり人間関係もまた一から作っていかないといけないじゃないですか。それを10店舗くらいやるわけですから、それが1番しんどかったですね。その店にはその店のルールがありますし。自分の常識がそこの非常識にだったりしますからね。しかも外国人ということで差別もされるし。

ラクロワで仕込み中の小住さん

大坪:やっぱり差別はかなりあったんですね?

小住:めちゃめちゃありました。アジア人というだけで見た目で判断されるし、技術で秀でて他の人に認められて、やっと自分的にももうここのケーキできるようになったから他のところ行くと、またそこでも最初舐められてってことの繰り返しですから。

そこでもう今でも癖になっちゃってるのは、自分で鎧作ってしまってますよね。もう舐められたら駄目っていう。年上でも年下でも、いろんな方に。それがちょっ尖ってるって言う。悪い癖ですよね。パリの悪い癖がついちゃってるっていうか。レストラン行っても、昼ご飯パッて買って帰りたいだけなんですけど、やっぱり辞められて、早くしてって店員さんに言わなきゃだめだったし、自分より後ろに並んでた人がフランス人だったらその人を先に接客されたりするので。

だからそういうのでしんどくはなりますよね。ああ日本に帰りたいなって。プレッシャーもなく不安もなく、コンビニでご飯買いに行ったり、牛丼食べに行ったり、日本って最高の環境だよなってその頃は思いました。

ただ、学んだこともたくさんありますし、メジャーリーガーばかりがいるところですから。地方からパリに出てきて、ここで技術を身につけて地元に帰ってケーキ屋をやりたいって子ばっかりなので、休みの日にお店に出ないと仕事取られるんですよ。休みの日に自分のケーキが変えられてるとか、休みの日に違うケーキできてるとかすると、自分の仕事なくなるので。なのでそれくらい意識が高い人しか残っていかない場所でしたね。

でも、ここで折れちゃうと自分の決断が失敗に終わってしまうので、自分の決断を成功にするという気持ちだけで頑張ってました。友達がバーベキューしてるとか花火大会行ったとかっていうのをSNSに上げてるの見て、あれがモチベーションになりました。

大坪:お前らいつか見てろよ!って。

小住:はい。で、10店舗くらい行って、ラクロワっていうお店に出会ったんですね。有名ではなかったんですが、本当に美味しいお店で。ケーキも綺麗で、他で見たことのないような感覚で。味も美味しいし、かつシェフ一人で作ってるみたいだったので、このシェフの横で学ばせてもらいたいなと思って入らせてもらって、それぐらいのレベルのお店だったのでいろんな人が入ってきて、最終的にはちょっと人数が多くなったんですけど。僕はもう時間がないと思ってたんです。大学出てからケーキの道に進んだので。なので、休みの日もお店に行くし、シェフに夜電話して、「今日の昼これだったけど、これはどういう理由でこうしてたの」とか聞くし、「今日は何するの、何時から行ったら手伝ってもいいの」とか電話して、出勤の日も掃除の時間が朝あるんですけどもそれよりも1、2時間早く行って、掃除を早く終わらせて、掃除終わったんで俺だけケーキ教えて欲しいとか言ってたんですね。でシェフも、外国人なのにここまで意識高くてフランス語も話せてってなったら気に入ってくれて、今では大親友なんですけど、色々教えてくれたんです。そしたら、他の同い年くらいの若い子らがいい顔しないんですね。あの外人の中国人だけなんで教えるんだってなって。嫌がらせみたいなこともたくさんあったんですけど。そんなある日販売員も含めて全員が辞めるってなったんです。

大坪:え!

ラクロワのシェフと

小住:「コイツばっかりに教えてて贔屓して、それだったら俺らは辞める。コイツを辞めさせるか、そうじゃなかったら俺らが全員辞める。どっちか選んでくれ」って、みんながシェフに直談判したんです。そんなことになってしまったので、僕は色々考えて、もうやめようと思ったんです。シェフに迷惑かかるし。違うところを探すかと思って、荷物整理して辞めるって言おうと思って、次の日早めにお店に行ったんです。そしたら、今でも覚えてますけど、店の中から工事の音がするんです。ダダダダダって。何事や!と思ったらシェフが工事してるんです。よく見たら、キッチンが二つになってるんです。何もかも。包丁も二つ、全て二つ。で、シェフ何してるの?って聞いたら、昨日全員辞めさせたと。

大坪:え!

小住:「お前一人と全員残るっていうのを比べたら、お前一人残った方がいい。ここのケーキはもう半分お前がやるんだよ、キッチンも半分使っていいから」と。「その分責任は出るけど、俺はあいつら全員に教えるより、お前一人に教えたほうがこのケーキ業界にとっていいと思ってるし」と言ってくれて。「あいつらはお前が休みの日に店に来たこととか知らないし」と。そっからはもうスイッチ入りましたね。これはシェフが本当に覚悟決めてやってくれたことだから、自分も覚悟決めてやらなあかんと。そこからはスイッチが入って、本当にずーっと働いてました。で僕がケーキ作ったら、シェフが販売してくれるんですね。最初半分って言ってたんですけど、作るのは全部僕一人でやって。

大坪:シェフがプロデューサーみたいな役割になったんですね。

小住:そうですね。で、二人で一緒に販売のバイト探しに行ったり、色んなことしてて。シェフもオープンから休みなく働いてたので、ちょっと休憩したらって彼に言ったんです。そしたらバカンスに行くとなって。僕は10日くらいかなって思ってたら、3週間バカンスに家族と行くってなって。「おお、3週間か!」って思ったんですけど。 その間一人でバイトの子たちのシフトも決めて、業者に連絡して発注とかも全部して、販売もしながらクレームが発生したらクレーム対応もして、売上とかも銀行に行ってお金預けたり両替したり、それを3週間やりながら、「あ、俺はもうフランス語と英語でこんなことできるようになったから、もうどこでも店できるな」って思ったんです。その3週間が本当に勉強になったんですけど 、それでずっと働いてるうちに、Best of Paris という賞をいただいたんです。

Best of Parisを受賞

大坪:ラクロワのシェフも喜んでたんじゃないですか?

小住:喜んでました。僕もに嬉しかったです。それから日本でもテレビとかいくつかのメディアに取り上げていただくようになって、時々日本にも帰ったりするようになって、そんなある日、シェフがもうお前はこの店を辞めた方がいいって言ってきたんです。どこか違うスタイルの、もっと大きいとこで働いた方がいいと。でも僕はその頃そこまで自分に自信がなかったので、そんなオファーはどこからもこないって言ったんです。でも絶対来るし、出て行ったほうがいいと。ここで出すケーキは、俺がイエスって言わなきゃ出せない。でもお前のケーキが本当は正解かもしれない。俺のケーキが正解かもしれない。それは判断できない。だからお前はお前のしたいようなチームを持ってどこかでやった方がいいって言ってくれて。そこでもスーシェフだったから、ほとんど自分で回して若い子ら全部面倒見てたんですけど、怖いなーと思いました。フランスには自分からこんな経歴持ってます、こんなのできますってアナウンスを出す仕組みがあるんですよ。それを企業が見るって感じで。

そこに出したら、本当に自分でもびっくりするくらい、いろんなオファーをもらったんです。そしてその中にひとつにすごいところがあったんですね。パラスホテルで。パラスホテルというのは5つ星のホテルで、一泊15万ぐらいするんですね。その中のミシュラン二つ星のお店からスーシェフっていうホストのオファーをいただいて。でもテストだったんで受けに行って、何人も受けてる人がいたので受からないと思ってたんですけど、簡単にいうと受かったんですね。感動したとか言ってくれて。もう食べる人たちがスターシェフとかしかいないんですよ。他には、そのホテルのオーナーとか大金持ちとか。そんな人たちが「どうせ日本人だから柚子とか抹茶とかそういうのを加えたケーキ出してくるのかと思ったら、完全にフランス菓子で勝負してくるから、どこまで自信あるんだって思って食べたら本当においしかった」って言っていただいて。テストの会場は、もう宮殿です。美術館みたいな、ルーブルみたいなところです。そういうところで食べてもらって、この子のが一番美味しいね、契約しようってなって。で、契約書がこんな厚さ(4、5センチ)なんです。えぐい契約書です。そして契約書の給料の欄を見たら、おおちょっと待てよって言うぐらい高かったんですね。こんなにもらえるのかと。休みもすごくたくさんあって。こんなに休んでいいのかっていう。で、厨房に行ったら100人くらいいたんです。エッ?ってなって。パティスリーの方も2, 30人いて、ケーキの方もこいつらが君のチームだからこれの上に立ってって言われたのが十数人です。いきなり十数人の上に立つのかって思って。もう僕の上にはシェフ一人しかいないですから。みんな朝は挨拶してくるし、朝はパンとか持ってきてくれるし、好きなように僕は何をしてもいいし、彼らに色々やらせるっていうので、こんな世界なんだって思って。

パラスホテルにスーシェフとして就任

大坪:朝昼晩働くような世界からガラッと変わったわけですね。 

小住:そうですね。でも自分ではやらないし、まだ28歳だし、技術的にはこれは伸びないなと思いました。箔はつきますけど。楽だし。なんて思ってたら、すぐにコロナが流行り始めて。コロナになると、パリは観光客の街なので、誰もこないんですよ。なので何もすることなくて。店は閉まるし。それでどうしようかなーと思ってたら、アメリカでも日本でも台湾でも買える「SO GOOD」っとっていうスペインの有名な雑誌に挑戦しないかという話があったんですね。自分でもずっと読んでましたし、日本人が一年に一人か二人出れるみたいな雑誌だったので。それに加えて、阪急で自分の名前で店やっていいよって、コロナで逆にそういう話がやってきたんですね。阪急は国別にエリアを分けるってことで、ここはフランス、ここは日本みたいな。でもコロナでフランス人呼べないから、フランスに一番近い人誰や、小住さんやっていうことでオファーをいただいて。で一度挑戦してみようと思ったんです。それでも人並ばなかったらもうやめようかなと思って。で、「SO GOOD」も写真載らなかったらまたフランスに帰ってきたらいいだけだしと思って。阪急でやるときに日本のものを発信したかったから、SO GOODと阪急を繋げられるケーキがあればいいなって思い、ずっと半年くらい考えて、座布団の形がいいかと。自分のスペシャリテがモンブランだったし、赤ワインのモンブランで二つ星も受かり、和栗にチョコレートに赤ワインに栗って面白いなとその時も言ってもらえたので、それでどういう形がいいかと考えて、SO GOODには座布団モンブランの写真撮影して送ったら、受かったんです。日本人最年少で載りますよって言われて。あれに日本人最年少で載れるんだって思って。最高でした。

『SO GOOD』に掲載された写真

次は阪急さんで、予算が正直言って低かったんです。そんなに売らないって思われてたと思うんです。だからこんなに冷蔵庫もショーケースもいらないよって上からも言われて、だから冷蔵庫もショーケースも減らされたんです。でも、ふた開けてみたら予算の25倍売って、人も200人とか待ってくれて2、3時間待ちという状況でした。

阪急でのイベント

それが今年の2月の話ですね。それで本当に買えないみたいに言っていただいて。形だけじゃなくて味も美味しいとを評価していただいて、今来てくださるお客様がみんなリピーターになってくれたのが本当に嬉しいですね。

なので次に何かしたいなーって思って。正直、阪急の時はもうみんな2、3時間睡眠だったんですよ。急に予算の25倍も売るもんですから。朝作ったものは昼になくなる、昼に作ったら夕方になくなる。で、次の朝は何も売るものがなくなるので朝まで作って、 そして売りすぎて、それを26日間やったので、自分でもここまで働けるんだって思いました。本当に人生で一番働きました。

大坪:それは、パリで朝昼晩修行してた時よりもってことですか?

小住:はい、もう全然働きました。例えば、2、3時間睡眠するのって普通はクリスマスの時くらいなんですよ。なので3日くらいなんです。それを1ヶ月間って初めてだったので。他の子らは休ませましたけど、僕がいないとモンブラン 作れなかったので、生クリームを開けて、中身をゴミ箱に捨てて、パッケージを混ぜてた時にはもう人間として終わったと思いました笑。

大坪:朦朧としてたんですね。

小住:はい笑。めっちゃ痩せましたし。だからコロナの中でそんなに並んでいただいて、本当にありがたいと思いました。世の中に仕事がないっていう中、自分のモンブランとかケーキ食べてもらう間だけ、5分ぐらいかな、コロナのこととかいろんなこと忘れていただけるし、幸せだったって言ってもらえるし、人に幸せを与えるのが仕事なので、本当に幸せでした。

で、次に何かしたいなーって思ってる時に、Preciousさんからご連絡いただいて。小住さんのケーキを企画のトップでやりたいから、もし小住さんがやってくれないんだったらこの企画もやらないって言っていただいて、興味もあったのでやりましょうとなって。まあその際、催事だけじゃなくて本店でも売って欲しいということだったので、今里本店でやってみて。

大坪:あ、あれはPreciousさんの企画だったんですね。

小住:はい、全然やるつもりはなくて。僕はまだ自分のマサヒコオズミパリというブランドも、自分のモンブランもそこまで浸透してると思っていなかったんですね。ただ実際にやったら、今里までお客さんが来てくれるんですね。この田舎に。

大坪:確かに、自分も関西出身ですが、なかなか今里って行かないですよね笑。

小住:そうなんです。それが一番自信になりました。今里まで来てくれるんだと。このケーキ食べるために仕事休みましたとか、小住さんのところに行けて思い出になりましたとか言ってもらえて。なのでまたしないといけないなーと今思っていて、どこかで常時食べられるような事もしたいなと思ってるんですけど。だから今のプロジェクトとしては、はっきり言って、企業、スポンサーを探しています。

大坪:具体的には今のところ次の企画は具体的にはないんですか?

小住:今月やりたいと思っています。今里本店で6月

大坪:本当ですか!これは小住さん自身のご企画で。

小住:はい、そうです。

大坪:絶対行きます。

小住:鎌倉から来ていただけるんですね、ありがとうございます。2回目の時はファンの方は朝の6時ごろから並んでくださって。2回目の時はファンの方はモンブランを買わないんですよ。新作のケーキを買われるので。

大坪:確か新作を4つくらい出されたとか?

今里本店にて行われたイベントで披露された新作たち

小住:5つ6つ出しました。今まではパリで出してたやつ、パリジェンヌに認められたものを出したんですけど、今回はゼロから作ったので、本当に苦しかったです。生み出すのが。それを食べたいということで、そっちが全部なくなって。こうやってファンのかたがついてくださるんだと実感できました。

<後編に続く>